今この瞬間もインターネットを行き交う暗号化されたデータの一部は、誰かがすでにこっそりコピーしてサーバーに保存しているかもしれない。今は解けなくても構わない。10年ほど先に量子コンピュータが商用化された時に、まとめて解読すればよいという計算だ。
これを**「ハーベスト・ナウ、デクリプト・レイター(harvest now, decrypt later:今盗んで、後で解読する)」攻撃**と呼ぶ。決済データのように長期間価値が維持される情報ほど、標的になりやすい。
この脅威に最も早く、最も大きく反応した国が現在の中国であるようだ。
1〜3編で見てきた新経済資産、つまりAIモデルやロボット工場、スーパーノードが生み出すデータも、結局はこの脅威から自由ではない。
開く必要のない暗号、ワンタイムパッド
中国が着目した概念は**「一次一密」、英語ではワンタイムパッド(One-Time Pad)と呼ばれる暗号方式だ。メッセージを送るたびに完全に新しいランダムなキーを一度だけ使用して破棄する方式で、理論的にはどれほど強力なコンピュータでも解読できないとされている。問題はこのキーを安全に「共有する」方法**だった。キーを伝達する瞬間に盗聴されれば意味がないからだ。どんなに完璧な暗号でも、鍵の受け渡し過程で漏洩すれば無意味だということだ。
ここで**量子鍵配送(QKD)**が登場する。QKDは光の最小単位である光子に情報を載せて送る方式だが、誰かが途中でこっそり覗き見ようとすると、光子自体の量子状態が変化してしまう。盗聴の試みがあったという事実を受信者が即座に察知できるということだ。データを直接暗号化する技術ではなく、暗号キーを気づかれることなく盗むことが不可能な方法で配送する技術といえる。
まとめるとこうだ。ワンタイムパッドは「一度使って捨てる完璧な暗号」という理論であり、QKDはその完璧な暗号に使う鍵を誰にも知られずに盗聴不可能な方法で受け渡すための実用技術である。理論と技術がペアになって初めて実戦で使える構造というわけだ。
墨子号から始まった10年プロジェクト
中国は2016年、世界で初めて量子通信実験衛星**「墨子号」**を打ち上げた。
翌年には北京と上海を結ぶ2000キロメートルの量子通信幹線を完成させたが、32個の「信頼ノード(trusted node)」を中継所のように設置し、区間ごとにキーを再生成して伝達する方式である。
光子は光ファイバーを長時間通過すると吸収されたり散乱したりしてしまうため、長距離通信のためにやむを得ず選択した構造だ。この幹線は当初から政府機関と銀行を結ぶために使われた。
ただし、この信頼ノード構造には弱点もある。
各中継所は量子キーを一度一般的な(非量子)信号に変換して次の区間に渡さなければならないため、理論的にはその中継地点で誰かがデータを傍受する可能性が残るという指摘がある。完璧なセキュリティというよりは、距離の限界を調整した現実的な妥協に近い。
2018年には墨子号を利用し、北京から7600キロメートル離れたオーストリアのウィーンまで大陸間量子暗号通信に成功し、75分間のテレビ会議を行いながら2ギガバイトのデータを送受信した。この実験には中国科学院、中国科学技術大学、オーストリア科学アカデミーの研究陣が共同で参加した。
最近ではコストをさらに下げる方向へ進化している。昨年公開された超小型衛星「済南-1」は墨子号よりも10倍軽く45倍安価だが、この衛星で北京から南アフリカ共和国のステレンボッシュ大学まで量子暗号キーを伝送することに成功した。衛星一つで地球の裏側まで鍵を運べることを証明したわけだ。衛星方式は信頼ノードをいくつも経由する必要がないという点で、光ファイバーベースの幹線の弱点を補完する代替案として注目されている。
計算速度でも一歩先へ、祖沖之3.0
通信面だけではない。計算面でも進展があった。
中国科学技術大学が開発した105量子ビット超伝導量子コンピュータ「祖沖之3.0」は、特定の演算において既存の最高性能スーパーコンピュータより1000兆倍速い速度を示したとされ、今年3月にはこのチップベースのシステムが研究室を離れて実際の商用サービスを開始した。合肥に本社を置く中国電信量子集団とクォンタム・シーテック(QuantumCTek)が共同で展開した。
ここで興味深いのは、この発表が通信インフラ(QKD)と計算インフラ(量子コンピュータ)が同じ国で同時に商用化段階へと進んでいる兆候であるという点だ。
盗聴を防ぐ技術と、未来に暗号を解読するかもしれない技術が、一国の中で並行して成熟していく姿だ。矛と盾を同時に手にした側が、時間が経つほど有利になるのは当然のことだ。盾(QKD)を先に敷いておき、矛(量子コンピュータ)を育てる順序で見ると、まず自身を守った後に相手の防御を突き破る力を養う戦略のようにも見える。
上海が放った量子シグナル
こうしたインフラが実際にどこに使われるかを示す最近の事例が上海から出た。
上海金融監督局は先月、銀行・保険業界の技術金融効率を高めるための案を発表する中で、量子コンピューティングを高度化された計算技術を活用する領域として明示した。ブロックチェーンはデータ共有と取引記録管理に、モノのインターネット(IoT)は現場情報収集に、量子コンピューティングは複雑な計算が必要な金融業務に割り当てるという役割分担の構造だ。
特定の暗号資産取引を許可する措置ではなく、まだ試験段階に近いが、金融当局が公式文書で量子コンピューティングに言及したこと自体に意味がある。
決済データや口座情報のように長期間価値が維持される金融データこそが、「ハーベスト・ナウ、デクリプト・レイター」攻撃の最優先標的だからだ。今このデータを守る方法を定めておかなければ、数年後には遥かに大きなコストを払うことになるという判断が根底にあるといえる。
この発表が出た時期も注目に値する。ブロックチェーンやIoTと並んで量子コンピューティングが言及されたということは、中国の金融当局がすでにこの技術を「いつか使う未来の技術」ではなく**「今すぐ役割を割り当てるべきインフラ」として扱っている**と読み取れる。
中国はなぜ量子セキュリティを今急ぐのか
1編で政府が新質生産力に財政を注ぎ込むのを見て、
2編でその結果が工場ロボットに、
3編ではAIモデルとスーパーノードとして現れるのを見た。
4編で見た量子インフラは、これらすべての基盤となるセキュリティ層に近い。どんなに優れたAIモデルやロボット工場を備えても、それを動かすデータが未来のある時点で丸ごと盗まれてしまえば意味がない、というのがこのシリーズ全体を貫く最後のパズルだ。
中国が墨子号から済南-1、祖沖之3.0、上海の金融試験方針まで10年近くこの領域に絶えず投資してきたことを見ると、これは流行を追う技術ではなく長期保険に近い投資に見える。今すぐ目に見える成果よりも、10年後にも現在やり取りしているデータが安全であることを願う側に賭けているわけだ。
このシリーズの最初の4編を通じて見た構図は、結局一つにつながる。
政府が資金を出し(1編)、その資金が工場のロボットへ(2編)、さらにAIモデルとスーパーノードへと現れ(3編)、これらすべてを長期間安全に守るセキュリティ層(4編)まであらかじめ敷設している。
次編では、この華やかな成長の裏側、つまり貸借対照表不況と青年失業といった中国経済の陰を覗いてみるつもりだ。