米バージニア州マクリーン。道路の片側には、塀と武装警備員、そして巨大な看板が掲げられたCIA本部があります。
しかし、そこから2マイルほど進むと、看板もなく窓の小さい灰色の建物が現れます。扉は常に施錠されており、案内板もありません。地元住民はこの建物を昔から**「クレムリン」**と呼んできました。CIAよりも閉鎖的だという冗談が、あながち冗談ではないのです。
この建物の主こそが、M&M’sやスニッカーズを製造する**マース(Mars)**です。
地元住民が実際にこの建物を「クレムリン」と呼んできた経緯は、単なる都市伝説ではありません。
マースはコカ・コーラよりも売上が多いにもかかわらず、一度も株式を上場したことがない、世界でも数少ない超巨大非上場家族企業です。
この秘密主義のルーツを辿ると、100年前に父と息子の間で繰り広げられた激しい対立に行き着きます。
フランクとフォレスト、父子の決別がマースを作った
1883年生まれのフランク・C・マースは、小児麻痺を患っていたため学校には通わず、母親のキッチンで時間を過ごしました。そこでチョコレート作りを学びましたが、彼が立ち上げた事業はことごとく失敗しました。
事態を好転させたのは父ではなく、息子のフォレスト・マース・シニアでした。イェール大学で産業工学を専攻したこの青年は、父とは全く異なる気質の持ち主でした。
1923年、父子は手を組み「キャンディバーに入った麦芽ミルク」というアイデアでミルキーウェイ(Milky Way)を世に送り出し、これが大ヒットしました。問題はその次でした。
小さな成功に満足しようとする父と、世界市場を狙う息子。二人の衝突は避けられず、結局フランクは息子にわずかな資金と海外での販売権だけを与えて、事実上追い出しました。
この苦い決別こそが、マースという帝国の真の創業神話です。
父の「現状維持」を目の当たりにした反動で、フォレストは冷徹な効率性とグローバル展開を自身の信条としました。
父から経営権を奪われた記憶は、後にマースが上場を拒否し、非公開の家族経営に固執する理由、つまり5つの原則の一つである**「自由(Freedom)」**の根源となりました。
戦場のチョコレートがマースのM&M’sになった
1930年代後半、父に追い出されヨーロッパを放浪していたフォレストの目に、決定的な光景が飛び込んできました。
スペイン内戦中の兵士たちが、砂糖でコーティングされて手で溶けないチョコレートを食べている姿でした。暑い日でも溶けない軍用おやつとは、ビジネスマンの嗅覚が働かないはずがありません。
アメリカに戻ったフォレストは、意外な相手と手を組みました。
父の最大の競合であるハーシーの社長の息子、ブルース・マリー(Bruce Murrie)でした。二人の姓である「マース(Mars)」と「マリー(Murrie)」の頭文字を取った名前、M&M’sはこうして誕生しました。
「手では溶けず、口の中でだけ溶ける」というスローガンと共に、戦争期間中は軍への納品のみに限定され、終戦の頃にはすでに参戦した兵士たちの思い出に刻まれた「国民的おやつ」となっていました。
マースが馬の名前を付けたチョコバーで「空腹」を売った
マースのもう一つの柱はスニッカーズ(Snickers)です。
1930年に発売されたこのチョコバーの名前は、実はマース家が飼っていた馬から取ったものですが、世界を征服したのは名前ではなくマーケティングでした。
マースはスニッカーズをデザートではなく、「空腹を満たす食事代用品」として売り込みました。
ピーナッツ、キャラメル、ヌガー、チョコレートの組み合わせは高いカロリーと満腹感を与え、これは忙しい現代人の生活パターンと正確に合致しました。
**「お腹が空いている時、あなたはあなたじゃない(You’re not you when you’re hungry)」**というキャンペーンがその極致でした。
世界中のどの文化圏でも「空腹」という問題は共通していたからです。
マースを100年支えたのは「5つの原則」という憲法
1964年、フォレストは父の会社と自分が育てた事業を合併し、マースの全権を掌握しました。
この時から自身の統治哲学を会社全体に浸透させ始めましたが、これが今日まで続く「5つの原則(The Five Principles)」です。
- 品質(Quality) — 消費者が上司である。品質への執着はほぼ宗教に近いものでした。
- 責任(Responsibility) — 役職に関係なく全ての従業員を「アソシエイト(associates)」と呼び、オーナーシップを求めます。
- 相互性(Mutuality) — 相互利益のみが持続可能な利益であるという信念。供給業者、従業員、地域社会が共に成長すべきという原則です。
- 効率性(Efficiency) — 無駄は罪悪です。
- 自由(Freedom) — 未来を自ら決定する力。マースが最後まで上場を拒否した理由がまさにここにあります。
原則と言うと壁に掛けられた額縁の言葉を連想しがちですが、
本当に恐ろしい企業は、こうした原則を実際の意思決定構造に組み込みます。マースも同様でした。
菓子メーカー・マース、売上の半分以上はペット事業から
私たちが知るマースは、実は菓子が主力の会社ではありません。
ペット事業部門であるマース・ペットケア(Mars Petcare)が全売上の半分以上を占める、巨大なペットケア企業に近いのです。
この転換は偶然ではなく、「5つの原則」に基づいた長期戦略の結果でした。
2002年にフランスのプレミアムフード企業ロイヤルカナン(Royal Canin)を買収した後、マースは数千もの動物病院チェーンと診断研究所を積極的に買収しました。業界ではペットケア部門の売上がチョコレート・スナック事業よりも大きく、マース全体の売上の半分以上を担っていると推定されています。ここで「相互性」の原則が恐ろしいほど機能します。マースが所有する動物病院の獣医師が、マースが直接製造した処方食を診断し処方する構造です。衝動買いに頼る菓子事業とは比較にならない垂直統合型のエコシステムなのです。
2025年、ケラノバ買収でマース帝国は再び拡大した
フォレスト・マース・シニアは1973年に引退しましたが、「5つの原則」という形で会社の中に今も生き続けています。マース家は現在5代目に突入し、会社の株式100%を今も家族が保有しています。
ここに最近の話を一つ付け加えるべきでしょう。
2025年12月、マースはプリングルズやチーズイットを手掛けるケラノバ(Kellanova)の買収を完了しました。マースが自ら発表した創業115周年記念リリースによると、この取引によりマースとケラノバを合わせた2025年の売上は650億ドルを超えました。事業構造もペットケア・菓子・食品にスナックまで加わった形で再編されており、こうした拡大方式は時代を超えて共通するものがあります。
リスクを負う資本と、四半期の業績圧迫なしに賭けに出る自由。上場していないからこそ可能な選択です。
結局、このチョコレート会社がコカ・コーラよりも巨大化した理由は、そもそも単なるチョコレート会社ではなかったからです。
父と息子の対立から始まり、ペット産業への静かな転換を経て、今やスナック市場までも飲み込んだマースは、今も私たちの目の前にいながら、ほとんど見えない巨人として存在し続けています。
参考文献
- Fortune, ["Mars Incorporated: A pretty sweet place to work"]
- Joël Glenn Brenner, *The Emperors of Chocolate: Inside the Secret World of Hershey and Mars*, Broadway Books, 2000
- How the Mars Compass Helps Us Navigate Our Path Forward
- Mars, Incorporated: History in the Making
- Life in Mars: reclusive dynasty behind one of world's most famous brands
- Washingtonian, ["Sweet Secrets: Opening Doors on the Very Private Lives of the Billionaire Mars Family"](https://www.washingtonian.com/2008/04/29/from-the-archives-sweet-secrets-opening-doors-on-the-very-private-lives-of-the-billionaire-mars-family/), 2008年4月29日
- Mars, Inc.
- Abasto, ["Mars Marks 115 Years as Family-Owned Business"](https://abasto.com/en/news/mars-marks-115-years-as-family-owned-business/), 2026年